旧約聖書ゼミを終えて。感想メモ。

2018年11月30日金曜日

催し

創世記のゼミのみ告知して、その後は主催の3人で読み進めました。


全7回で先日最終回を終了。レジュメはこちらにアップしてます。

全体を読んで感想などをメモ。
・最終回をエゼキエル書以降を読んで、ほんとにメシアに出てきて欲しくなった。この辺は概ねバビロン捕囚後のつらい時期の記述になる。神は、こうなったもの民の背信のせいだと民に叱咤し続ける、そしてちゃんと神を信じなさいそうしたら救いますと言い続ける。いろんな言い方で何度もそう叱咤激励(?)し続けて、民の方も「罪を犯しました許して下さい」と謝りつづける人も出てくるし、ただひたすら助けてくれとお願いする人もいるし、読んでいても暗くなる。なんとかなってほしい、救世主出てきて欲しい、と思った。(結果的に新約聖書も読みたくなった。)

・例えば、ある小説とか、ある哲学書とか、一人の人が書いたひとまとまりの書物を読んだのとは全然違う読後感があった。文体としてもまとまりがない。読み終わったときに最初「創世記」が遠い出来事として思い出される。「ああ、そんなことあったね」みたいな。まとまりがないけれど、ひとつの人生を読んだという感じはあった。状況状況に応じて対処していっている感じか。創世記という書から始まる、生まれてからずっとという感じか。下世話に言えば「人生ゲーム」っぽいのかもしれない。創世、エジプトから脱出、律法、繁栄、ちょっとまんねりになり、王をつくる、また困難な時代。それぞれをいろんなやり方で生き抜いていく「神」というひとつの生き様。ひとつの書ごとに、登場の仕方や民との関わり方など結構やり方が違ってくる。性格も違って見える。

・印象に残った人物を一人だけあげるとすればヨシュア。読むまで名前も知らなかったし、聖書内でも地味。でもこの人は相当の切れ者。時代的にはモーセの直後に活躍。神が与えると誓ったカナンの地をヨシュアの時代に得る。この宗教の形式も随分このころに固まったんではないかと思う。

・全知全能の神は、信仰する人を必ず助ける神ではない。どちらかというとすべての因果を司っている神。何故ある出来事が起こったかというとすべてその神が起こしていて、それを説明できる。ただし、それが信仰者にとって端的によいことかというとそういうわけでもない。都合のよいことも悪いことも起こすけど、どんな理由にしろ、わたしがやりました、とすべての責任を追うところにこの神の頼もしさはあるのかもしれない。

・創世記のはじめから、この人たちは他の民族を意識している。「神話」という言葉を聞いたときに、もっと自分たちの世界の中で完結するもののイメージだったのでこれは意外だった。唯一神という言葉も、この宗教の中では神はこの神だけだという意味だけで、他の民族が他の神を信仰していることを重々知っている。物語自体も他の民族がいないと成立しない。そもそも、他民族が住んでいるカナンの地を与えるということろから始まっていく。(神に選ばれた)私達とそれ以外をわける(違いをはっきりさせる)物語とも思える。

・読んでいて面白いのはサムエル記(ダビデの頃)くらいまで。なにかがどんどんできていく感じが若々しい。ソロモン王の後は力を失っていくので苦しさがあり、しかもその原因は民の背信となるので、神が基本的には怒っている状況になりなかなかしんどい。

以上。
なにか思いつけば書き足すかも。