ある言語を話せるということと、その言語の特性を知っているということは別のこと。

2020年5月28日木曜日

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なんとなく前に書こうと思って随分経ってしまった。

例えば、英語が話せない人が、英語を話せる人より英語のある側面がつかめてしまうということがある。

これが、わかったときは結構衝撃だった。
それなりの受け入れがたさがあった。

英語は今でもある程度わかる。
大学はカナダで出てるからチューターの手を借りながらもそれなりの長さの文章も書いた。もちろん、そこで特に困ることもなく住んでいた。だから、英語のことはそれなりにわかっていると思っていた。

英語が話せる、聞ける、読める、書ける。そのことに関してはそのとおりで、十分できる。もちろん英語ができない人よりできる。当たり前だけど。

でも英語が読めない人が英語のことをよくわかってしまうということは、それは十分ある。

英語を日常的に話し、読み書きすると、英語の中にいることになる。
それはすでに英語のなかにいる状態だ。
英語の中で英語は自然だ。だから、英語として話しやすいことや英語として書きやすいことは難なく言える、書ける。英語事態に疑問をもたなくていい。

翻訳されたものはどうだろうか。原文が英語の本(あるいは外国語の本)を読むと、翻訳されているにもかかわらず外国のものという感じが消えない。それはやはりその言語のなにかを物語っている。

日本語にはない独特の雰囲気はなにがかもし出すのか、聞き慣れない言い回しにはどんは背景があるのか、なぜ筆者は日本人的には些細に思えることをぐどぐどい問い詰めるのか・・・細かく分析するといろいろ疑問が湧いてくる。こういったことについて考えていくことで言語のー側面が見えてくることがある。

この側面というのは相対的なものだと思う。日本語に日々接しているから、日本語が母語だから、気になるし認識できる差異というものだ。その外国語の中では自然にそうなるというような類のことだ。

そういう差異を知るのにその外国語を知る必要は特段無かった。
翻訳本を読めばわかる。そのほうがわかるのではないか。


以前は、英語がわかるというのが自分のステータスだったんだろうと思う。だから、英語が読めない人が、自分より英語についてわかってしまうというのがなんだか解せなかったけど、気づいたら全然そんなこともなくなってしまった。

英語や外国語が読めなくても、その言葉のことを教えてくれる人がいて、その話を聞けたりするのは面白い。多分、以前よりも英語や外国には興味が出てきたのかなと思う。

先日、久々に英語で文章を書いた。絵の賞に応募するため。
日本語で書きたいことは最初にまとめておいたけど、うまく英語に訳せない。日本語にとって大事なことと、英語にとって大事なことが違う。直訳しても同じにならない。だから、自分が言いたいことを伝えるには書く順序や表面的な内容を大幅に変更する必要を感じた。

そもそも久々過ぎて英語が下手になっているので手こずるのだろうけど、英語やヨーロッパ語の特性を知ってきたことは大きな手助けになっていたと思う。

今は日本語と英語は違う岩盤に乗った言語のように感じている。日本語から英語へ岩盤を乗り移ったときになにを気にして書けばいいのだろうか。英語にするときは英語として伝わるように訳したいと思った。そんなことは英語を日々使っていた学生のころには考えたこともなかった。当時は基本的には英語で考えたことを英語で書いていただけだ。日本語で考えたとしても、岩盤の差異には無頓着だった。

うまく書けなくて散々だった。お金があれば翻訳家にお願いしたいと思った。でも、そういうことを考えながら書いているのはちょっとワクワクした。今までで一番英語が面白かった。



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5月26日開催より、会場での参加も受付けます。

○7月28日ー8月1日:言葉の表出、夏合宿2020
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※満席になりました。以後キャンセル待ちで受付けます。

○12月15日〜12月21日:言葉の表出、冬合宿2020
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2019年6月1日発行雑誌「言語6」に寄稿文が掲載されました。