「贈与論」を読む前に。

2015年3月20日金曜日

催し 嫉妬



今月からゼミで読む贈与論。

「男の子って女の子が普通にチョコレートあげると、受け取るでしょ?
でも、バレンタインの日にあげようとすると貰わないの。
その理由が書いてある。」

何人かで「贈与論を読むんです」と話をしていたら、
贈与論をそんなふうに評する人がいた。

その下世話な感じが面白くて、贈与論に親しみが湧いてきた。

贈与論を読む前に、気になってたことを書いておこう。

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1 誕生日プレゼントをあげた。自分にも誕生日プレゼントが欲しい。

パートナーに誕生日プレゼントあげた、
自分の誕生日当日にはなにもないと寂しくなっていた。
(数日後、プレゼントをくれた)

誕生日プレゼントをあげまくる人ではないけど、
パートナーだとどうしてもあげたくなった。
あげて喜んだらそれで満足かといえば、そのときは確かに満足した。
しかし、自分にはもらえなかったとき思いっきり不機嫌になった。
数日後プレゼントをもらって安心した。

そして、「私も誕生日にプレゼントが欲しいです」と要求するようになった。

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2 おばあちゃんにあげた絵が返ってきた。

学生時代、祖母に自分で描いた油絵をプレゼントした。
絵は当時喜んでくれた。
最近はすっかりあげたことを忘れていた。
祖母は「持っていてもそろそろ死んでしまう。なんとかしないといけない。」
そう言って額装してその絵をうちまで持ってきた。

絵が返ってきたとき「ああ、絵が要らなくなったんだな」と思った。
少し寂しさがあった。
祖母がこの絵を持ったまま亡くなったら、
誰かが「あんた描いたこの絵どうする?」と聞いたんだろうけど
その前に私のもとに戻ってきた。
祖母が捨てない限りなんらかの判断を私は下すことになっただろうけど
今と死後では随分違う。

絵は何人かに贈ったことがある。
贈っているのは自分の好きな人で、
あげた人がそれを捨て難いのを知っていて贈っていたんだろう。

戻ってきた絵は単なる自分の絵というよりも、
祖母が私に贈った絵になった。
その絵を見ると、描いた時のことよりもむしろ
祖母のことを思い出す。

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3 おじいちゃんの自作の木彫作品をもらった。

亡くなった祖父が
「孫に残してやるものを作らなあかん」
と言って退職後いろいろ木彫作品を作っていた。
私も生前に3点もらっていた。

その1点が手鏡。手鏡は使わない。
なんだか持ってるのが重荷になってきて、
「おじいちゃん、もうこの手鏡は私の手におえません。ごめんなさい」
と心のなかで謝りながら手放した。
人にあげようかとも考えたけど、自分で手を下さねばと薪にした。
そうやって1つに手を下すと、他の2つは軽く見えてきて
持っていてわずらわされることもなくなった。

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ぱーちゃんがこの記事で書いていたことを思い出す。
あげる側の意図する・しないに関わらず、
ものが目に入るだけで、その人を思い起こす。

自分を思い起こして欲しいということが強く働くとき捨てにくそうなものを選び、贈る。
その人を思い起こすことが重荷になるから受け取ることに躊躇する。
なんでそんなものあげるのよと思う

ゼミが楽しみです。