【名画からの一枚 004】『ゲルニカ』(1937)パブロ・ピカソ

2020年4月10日金曜日

名画からの一枚

新型コロナウイルスの流行が始まってしばらくしてから、度々「ゲルニカ」のことを思うようになった。世界では今たくさんの人がゲルニカを思い出しているのではないか。

調べてみると、わたしがゲルニカを見たのは13年も前だった。

2020年3月12日からゲルニカを収蔵・展示しているソフィア王妃芸術センターは新型コロナウイルスの影響で閉まっている。今、ゲルニカを普通の人は見ることができない。

13年前にはわたしはゲルニカのよさがわからなかった。あまり多くの人はわかってなかったんではないか、周囲にたくさん人がいたが、感動や感激は覚えていない。


時々ゲルニカを思い出しながら過ごす日々が続いて、自分はなんとか今のこの状況を絵にする方法はないかと考えていた。

そして、ゲルニカでなされたことはそういうことかと瞬時に思った。

ゲルニカは思い出しても緻密で構成の効いたスマートな絵ではない、ピカソはものすごく絵は上手い画家のはずで、そのピカソが349 cm × 777 cmという大画面を選び、どうもちょっとやぼったいイメージが残っていた。

きっとこの絵はものすごく短期間に仕上げたに違いないと、直感して調べてみると「ゲルニカ爆撃」が1937年4月26日、そして「6月4日頃には絵画がほぼ完成した」とある

絵画のモチーフとなる爆撃から完成までひと月ほどしかない。尋常ではない速さだ。この大きさだ。
自分で絵を描いてみて思うけれど、構成や緻密さに力をいれると本当に描くことはゆっくりとしかすすまない。そんなことをやっていてひと月で描きあがるわけがない。

ピカソはそういったものはかなぐり捨ててなにかを描き出そうとした。
おそらくそれがその時にしか描けないものだ。
1937年の4月から6月にかけてその時ピカソが感じたものをなんとかして絵に残すこと、そのものをやろうとした。時間がたってしまっては消えてしまうものだ。

反戦のシンボルだとか言われたりしているけど、ほんとうにそんなこと考えていたかはよくわからない。今わかるのはピカソが当時感じていたであろう生々しい感情と、それを稚拙でもなんでもと残そうとした、気迫だ。絵なのかドキュメントなのかわからないほどの生々しさだ。

わたしが今どうしてもゲルニカを思い出し、胸を打たれてしまったのは残そうという気迫だろう。刻々と物事が変化する中で何かを残そうとするのは、ゆっくりと時間が流れる時と同じ方法ではできない。

今ある力で例え稚拙にみえても、完成度を出せないと知っていても、とっくみはじめるしかない。

大画面はきっと彼にとって必須だった。小さく緻密なものではない、なんとか残そうとする必死のあがきを受け止めるようなものでなければならなかったのではないか。

もちろん、ピカソはめちゃくちゃ絵がうまい。
あがいたって必死だったってそれなりのものは作る。

ほんとに有名なこの名画がの解釈がこれでいいのだろうかという不安はなくはない。でも自分にはどうしてもそんな風に思い出されてしまった。

危機の最中に描かれた絵が、危機の最中によみがえる。普段の感覚では読み取りがたいものがあるのではないか、だから今もしかしたら世界でたくさんの人がゲルニカをおもいだしているんじゃいかと思った。

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2019年6月1日発行雑誌「言語6」に寄稿文が掲載されました。