生きている人の残骸としての絵画。

2020年4月10日金曜日

絵画

新型コロナウイルスが広がっていく。

ヨーロッパに行くなんて今は論外だと思い始めた。海外の絵が見れない。
普段から見になんていけてないけど、実際行けないと思うとちょっと大ごとだ。

国内の美術館がばたばたと閉まり始めた。閉館の期間がどんどん延長されていった。

自分の絵を家で展示してみせようと思ったが近いうちはかなり厳しい。

絵を見ることが、見せることが閉ざされていくようだった。


まあ、こう書くほどは悲観していなかった、じわじわと自分の今までの考えがひずんでいることに気づかされた。今の考えでは緊急時に絵画は無力なのだとしかいいようがないのではないか。遠くない未来にまた絵が見れることがあるだろうことを知っているということにすがって社会が元に戻るの待ちながら生きていくのはなんだか違う気がした。

よく考えると作品というものが素晴らしいのだと思い込んでいた。
実物の作品。それを作ること。それを見ること。

でも、考えているうちに絵画というのはある生きていた人の残骸だと思うようになった。ネガティブに考えているわけではない。描く側にたったときに、生きる側にたったときに、そういう風に考えることができる。

結局のところ、どのように考え、生きるかが作品をつくっていく。その人のその時点の残骸のように作品ができる。わたしが真面目に生きることがわたしの残骸として、作品として残る、作品にしようとする。

そして、作ろうとすることによって、さらにわたしは考え、生きる。

ただただ作品を作ろうということによってだけで美しい作品ができるわけではなく、まじめに生きようとすることが美しい作品をつちかっていく。今も、どんな状況でもずっと真面目にいきようとすることができる。いつでもどこにいても作ることと直結している。

絵が見れないという状況に対しても悲観することはない。

絵そのものを体験するには実物を見るしかないのは確かだ。でも美しい絵は人を語らせる。昔見た絵のことをわたしは覚えている。あるいは、見たこともない絵のことをわたしは聞き知っている。

そのこと全部含めて絵画がなしうることだと思うようになった。
絵画の世界を以前より広く見れるようになった。

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〇【定期開催】デッサン会
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○5月2日、3日:第0回 まるネコ堂芸術祭

○7月28日ー8月1日:言葉の表出、夏合宿2020
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2019年6月1日発行雑誌「言語6」に寄稿文が掲載されました。