言語美ゼミへ向けて。横光利一を読む。

2021年3月5日金曜日

言語美ゼミ第3シリーズ

横光利一の「蠅」、「頭ならびに腹」、「ナポレオンと田虫」、「機械」を読んだ。
ゼミで読んでいる「言語にとって美とはなにか」の影響だ。 

次回のゼミ該当部の冒頭はこんな言葉で始まっている。
個人の存在の根拠があやふやになり、外界とどんな関係にむすばれているのか自覚があいまいで不安定なものに感じられるようになると、いままで指示意識の多様さとしてあったひとつの時代の言語の帯は、多様さの根拠をなくしてただよってゆく。<私>の意識は現実のどんな事件にぶつかってもどんな状況にはまりこんでも、外界のある斜面に、つまり、社会の構成のどこかにはっきり位置しているという存在感をもちえなくなる。
(略)
たぶんこれが大正末年このかた近代の表出史がつきあたった表現のもんだいだった。(「言語にとって美とはなにか」吉本隆明著より。下線は引用者。)
おそらくこれは感覚としては世の中に宙ぶらりんに存在しているようで寄る辺なく思うことであったり、 物事の重要性は自明ではなくなってしまったことだったりするだろう。以前は自分の立場に応じて、重要度は自明となった。世の中の物事の重要性が他の人とは共有できようがないという感覚も生じたんではないかと思う。大正末年頃の文学は、そういうことにはじめて直面した人たちの文学なんだろう。

そして、『大正末年「このかた」』しばらく続いた。現代は、表現の問題ではなく、もう一般的な問題にまで降りてきているのではないかと思う。

前章の夏目漱石までは、世の中にある様々なものは序列を持って存在できた。時代劇を見ているように括弧として安定した世界があった。「人は家に入っていく」し、「友人は馬車に乗って訪ねてくる」。

でも横光利一の世界では「家が人を入れ」もするし、「馬が人を乗せてやってくる」かもしれない。世界の秩序が崩壊して、物事の重要性が、視点によってガラリと変わる。とても騒々しい。

自分は確固としたものではない、正直言って世の中の秩序とかよくわからない、という感覚はもう今になっては普通のことだと思う。古臭いと言ってもいいかもしれない。でも、横光利一の時代は、それが始まったころで、その感覚を上手く、ダイレクトに伝えることは不可能だった。その自体に、なんとかその雰囲気自体をだそうとしたのが、これらの作品なんだろうと思う。「騒々しい」くらいの力強さで、なんとか伝えようと書かれたにちがいない。


ここではふれられなかったが、一応注釈しておくと『「蠅」、「頭ならびに腹」、「ナポレオンと田虫」』の3作品と、「機械」は吉本の表出史としては段階が違う。「機械」が先にすすんでいる。



単発参加も可能です。是非。
【吉本隆明『言語にとって美とはなにか』ゼミ第3シリーズ

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 ■ 大谷美緒の催し&お知らせ ■
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◯【3−4月の展示】肖像画展ー小さい肖像画1点と絵本1冊。

◯6月17日~6月21日 言葉の表出、夏合宿2021

◯開催中(単発参加可能):吉本隆明『言語にとって美とはなにか』ゼミ第3シリーズ 全13回

◯第1回まるネコ堂芸術祭準備中

◯革と帆布のキャラペイスー大谷隆と共同運営

◯2019年6月1日発行雑誌「言語6」に寄稿文が掲載されました。